(4)生垣の話 続き
前項でイチイの生垣について悪口を言ってしまったが、それはぼくの住むあたりを見回した印象であって、内地で見るようなよく手入れされたイチイ生垣は、端正な緑の立体としてそれなりに見事なものだ。彼我にどういう違いがあるかというと、端的に積雪の問題だろう。つまり、積雪のある地域での生垣は、そもそもからハンディを負っているのだ。だって、たとえばわが家では黙っていても2メートル以上も雪が積るのだから、当然生垣の上にもその雪が乗る。この重量に自力で耐える生垣というのはありえないから、どのようにガードして冬を越すか、それが勝負になる。この時、冬にも葉をつけている針葉樹というのは耐雪上圧倒的に不利だ。 わが家のカツラの生垣は、葉を落とした晩秋に、専用に作った木製の大型「すのこ」のようなもので両側からはさみこんでいる。アルファベットのA字型に養生をして雪に備えるわけだ。カツラは葉を落としているし、枝も柔らかいのでこういうことができるのだが、イチイとなると中々こういう冬囲いはむずかしく、色々方法はあるのだろうが、どうしても雪のダメージを受けてしまう。おまけにイチイは成長が遅いから、痛んだ部分の回復に時間がかかる。北海道のイチイ生垣がハンサムでないのは、こういう事情によるのだろう。 雪の影響を受けない、あるいは影響が軽微な内地では、生垣は広葉樹、針葉樹ともに広く樹種を選ぶことが可能だ。そもそも温暖な気候だから自生する樹種も多く、イチイの他にもマキやキンモクセイ、ツゲ、ヒバ、イボタなどたくさんあるし、アラカシやカイズカイブキなどは背丈の高い生垣に使われるようだ。京都や奈良を歩くと、それはそれは見事な生垣に出会って、やっぱり内地にはかなわないなあ、とちょっと敗北感を持ったりするのである。別に京都や奈良と戦っても仕方ないのだが、やはりくやしい。 京都からもっと遠くへ行って生垣を眺めるなら、やっぱりイギリスだろうか。イギリスの生垣、というとすぐに「ヘッジ」とか「ヘッジロー」というような単語がネットに出てくる。ただ、ヘッジローというのはぼくたちが生垣として連想する種のものではなくて、田園地帯で見かける放牧地の区画のようなものを指すはずだ。 イギリスやアイルランドの田舎を旅すると、緑の牧草地とこのヘッジローのラインが風景の中心になっていて、もちろん道路との境界も同じヘッジで区画されている。車から降りてよく見ると、たしかに植物による垣根ではあるけれど、まず樹種がかなり混ざっているし、かなり乱暴に木をねじ曲げてある。刈り込んで形を作るというよりも、灌木の枝を編むようして作られているのが分かる。樹種についてはよく分からないが、ぼくの見た範囲ではヤナギが確認できた。そして、この混み合う雑木の枝先を、槍のように思い切り鋭く剪定してあって、それは垣根を越えての侵入を防御するかのようだ。羊や牛などの動物たちに対して、この鋭い枝先は十分効果があるだろうし、囲い込む役割を果たすのだろう。ヘッジの幅も相当に広く、2メートル近くありそうだ。 イギリスの旅で買った本のひとつにこのヘッジローについてのイラスト本があったのだが、残念ながら手元に見当たらない。その本にはヘッジの歴史や作りかた、そこにできる生態系などについて細かく記されていた。生垣に咲く花、実る果実、巣を作る野鳥、などが紹介されていた。そのヘッジも近頃ではどんどん減って金属フェンスに代わっているらしく、伝統を惜しむノスタルジーに満ちたいい本だった。 というわけでヘッジローとは牧場の囲いのことなのだと思うが、では庭の生垣をどう呼ぶかというとこれもまたヘッジというらしい。イギリスのある園芸書には「単数の植物で作るのはヘッジ、複数の植物を組み合わせるのがヘッジロー」とあるが、しかし他の本では小さな低い生垣もヘッジローと呼んでいるから、言葉では両者の区別はできないみたいだ。それはともかく、生垣は西欧の庭でも実に多様に使われていて、樹種は日本よりずっと多いように思える。イギリスの種苗カタログを眺めると、花や野菜の種に混じってヘッジ用樹木苗のページがある。それによれば、イチイやツゲ、ニシキギやヒイラギ、ツバキ、月桂樹などが並び、ベリー類やバラなども生垣用に紹介されている。実がなったり、花が咲いたり、葉色がにぎやかだったりとかなり多彩だ。生垣を楽しもうとする姿勢がとてもいい。いわゆるフォーマルガーデンなどにある幾何学模様を作る低い生垣はイチイやサンザシ、ツゲなどが使われるらしい。刈り込みに強く、葉が小さいことが条件になるのだろうか。イチイは「ユー」、サンザシは「ハー」と呼ぶらしくておもしろい。 遙か遠くイギリスへと空間を飛んだので、ついでに今度は遙か昔へ時間を飛んで、70年前の横浜の生垣へ行ってみたい。 ぼくはどこかよく分からない外国で生まれたことになっているのだが、たしかな記憶が始まるのは幼児期の横浜の家だ。横浜市の郊外、白楽という場所に家があって、和洋折衷の平屋建ての住宅だった。記憶では家も庭もかなり広かったように思うが、子供の頃の記憶のスケール感というのは実際と結構違っているので、あまり確証はない。最近、その頃通った横浜山手にある聖公会の教会を訪ねたのだが、記憶とはまるで違って、びっくりするぐらい小さくて情けない建物だった。だから横浜の家も庭もたいしたものではなかったのかも知れないのだが、ともかく幼児期のぼくには大きな世界でありフィールドだった。 敷地の前面には割合広い道路があり、裏側には川が流れていたが、そのほぼ一周が生垣で囲まれていた。生垣は「マサキ」の木で作られていたのだが、これは当時最もポピュラーなものだったと思う。近所のどの家もマサキの生垣に囲まれていたように記憶している。ぼくが最初に覚えた樹木の名前もこのマサキだったに違いない。マサキはいまでも使われるのだろうが、これといって特徴のない平凡な低木だ。おそらくその強健さを買われて多用されたのだろう。 少し成長して関東学院の小学校に通うようになったが、学校ではお坊ちゃま、帰ると下町少年とのつきあいの毎日だった。勇敢で下品なS君が当時のぼくの先生だったが、彼が当時熱中していたのが「ホンチ」というクモの戦いだ。横浜に限った伝統らしいが、野生のクモどうしを戦わせるゲームがあって、少年たちはそれぞれクモを捕まえては飼育し、戦いに挑むのだった。ホンチはハエトリグモの一種で、オスは好戦的で相手とがっぷり組んで戦うのだ。マッチ箱に入れて持ち歩き、戦い用の大きめの紙箱は駄菓子屋で売っていた。「ホンチ箱」と呼んでいたと思う。 このホンチがいるのが生垣のマサキだ。春になるとその年の自分のホンチを獲得すべく、少年たちは生垣を丹念に見て回った。ぼくは小さかったから親分の後をついてあるくぐらいだったが、偶然自分でホンチを捕まえると嬉しかった。せいぜい1センチほどのクモだが、それなりに個性があり風格のようなものもあった。S君から二級品をもらって自分なりにかわいがったりもした。ホンチは正式にはネコハエトリというクモで、巣をつくらずに獲物を捕獲する肉食の戦士だ。クモを嫌う人もいるが、ぼくはこの少年期の経験があるので、割合クモが好きだ。ハエトリグモ類は北海道にも普通にいて、たまに見かけるとちょっと声援を送りたくなる。 というわけで横浜の住まいと、そこにあったマサキの生垣と、そこにいたクモの話なのであるが、幼児期から少年期にかけての記憶として、これらは結構しっかり根をはっている。この横浜の家には広い庭にそれなりの数の庭木が植わっていたはずなのだが、その中で特に覚えているのが「アオギリ」の木だ。緑がかったすべすべの幹の木だったと思うが、これがぼくの木登り専用の木だった。なにがおもしろかったのか、よくこの木に登ってあたりを見回していた。台風が来る予報があると、家では雨戸を打ちつけたりしていたが、ぼくは揺れる木に登ることを最大の楽しみとして待つのであった。台風の日に登ったアオギリが風で大きく揺れ、それに身を任せた時の快感は、いまでも身体の芯の方に結晶しているように思える。 アオギリの他でよく覚えているのは、イチジクの木だ。それなりに大きく枝を張った木で、実がなると収穫しては家族で食べたのだが、ぼくはこの果実がすごく嫌いだった。この木は葉や枝を折ると白い粘液が出て不気味だったし、木があった場所が川のそばの陰気な所だったからも知れない。70年も経つのに、いまだにイチジクは苦手だ。 思い出ついでに記しておけば、玄関先にあった大きなヤツデの株、自分より背の高い白いバラの茂みなどもその色合いとともに記憶の中に浮かんでいる。いま、ぼくの庭には種名の分からないブッシュ状のバラがいくつかあるのだが、それがなぜか横浜のバラとよく似ている。一緒に庭を歩く母親に「横浜の家にもこんなバラがあったよねえ」と言うと、5分ぐらいたってから突然大声で「あー!あったあった!」と答えた。100歳の記憶にも眠るバラなのであった。 調理用トマトのエース・サンマルツィアーノとその他大勢 トマト 昨年もいろんな種類のトマトを栽培した。調理用には大玉の「世界一」「ピンクブランディワイン」「アロイ」「ポンテローザ」中玉は「サンマルツィアーノ」「中玉オレンジ」「レッドゼブラ」ミニは「ステラミニ」「ブラックチェリー」「ワーンミニ」「ひとくち」「ボルゲーゼ」すべて在来種のトマトなので昨年採っておいた種子を播いて育てたものだ。自家採取した種を播いて苗を育てる。苗を菜園に定植して育てる。収穫する。各々のトマトの種を採って保管する。翌年の春に播く。菜園ではこのような循環が確立している。気まぐれに新しい品種が加わることもあるが、毎年ほぼこんな感じ。ミニは生食用なので収穫したらどんどん食べる。大玉中玉のトマトはほとんど冷凍して一年分を保管し、調理用として使う。2台の冷凍ストッカーいっぱいに詰まったトマトを見てこんなにたくさん!と驚かれるけど翌年の夏前にはほぼ使い切ってしまう。 毎日、味噌汁感覚で食べている野菜のごった煮スープにトマトは欠かせない。スープストックや出汁は使わずに野菜からにじみ出るうまみと少量のスパイス、味噌、ナンプラーが味の基本になる。このスープにはトマトは必須アイテム。トマトは野菜の中ではグルタミン酸が多いのでトマトの量を減らすと確かにうまみが減るような気がする。 さて今日の夕食はどうしようかと考える前に手元にある野菜、玉ねぎ、大根、にんじん、キャベツ、白菜、ニンニク、生姜、キノコ類をほとんど機械的に刻んでお湯を張ったスペインの土鍋カズエラに次々放り込んで煮る。冷凍トマトと同じく冷凍しておいたツルムラサキやハンダマ、モロヘイヤや雲南百薬のような南国野菜も加えて煮込む。落ち着いたらスパイス、味噌、ナンプラーを加えてぐつぐつ煮込んだあと火を止めて蓋をして蒸らす。この蒸らすという作業が大切で、蒸らしが野菜のうま味を引き出すのだろう。 蒸らす時間がないときにはこのスープは止めた方がいい。 体にいいのはもちろんだけど、このスープは「野菜を食べなきゃ」という強迫観念から解放してくれる。体にいいばかりでなく精神的にもまことによろしい。これさえ食べていれば、コンビニ弁当だってカップ麺だってなんでもあり。栄養バランスはともかく精神の平衡は保てるのである。 調理用トマトとしてはやはりサンマルツァーノが優れていると思う。本場もんだけに一日の長を感じる。冷凍トマトは通常、水に浸してから皮が剥くが、サンマルは、他の大玉トマトに比べると皮が厚めなのでスルスルと簡単に剥ける。その上、水分が少ないせいか、ふつうの大玉トマトのようにがちがちに凍らないので冷凍状態でもナイフがスーッと入って切りやすい。中玉と大玉の中間サイズなのでひと鍋のスープに1個放り込めが充分、使い勝手がいい。 古くからトマトに親しんできたヨーロッパや中近東の諸国ではトマトは加熱して食べる野菜として扱われてきた。サンマルもパスタのソースやミネストローネの原料として改良された結果、調理用として使い勝手のいいトマトになったのかもしれない。何より頑強多産なのがいい。 そこへ行くとピンクブランディワイン(なぜこんな名をもらってしまったのか意味不明)なんておおげさではなく赤ん坊の頭ほどのサイズに成長するからとても扱いにくい。大きければいいというものではない。 一般に野菜の生産量は減少方向にある中でトマトはかろうじて現状維持を保っている。それは多分、ミニトマトのおかげだろう。こんなことは普通の人にはあまり興味がないかもしれないが、わたしには大問題なのである。 70年以上昔の子供時代にはミニトマトなんてなかった。大きな青臭いトマトをくし形に切ってマヨネーズかなんかと一緒に食べさせられたものだ。いつ頃からか定かではないが、八百屋の店先にミニトマトが姿を現し始め、食卓に頻繁にのぼるようになった。ミニトマトはいつの間にか大玉トマトを隅に追いやって、八百屋さんの店先でもスーパーの野菜売場でも主役の座に躍り出たのである。 それもよくわかる。ミニトマトは色も姿形も可愛らしい。店先に並んでいるだけでもアイキャッチャーの役割を充分に果たす、看板娘(息子)のようだ。消費者の側からしてもミニトマトは包丁を使わずともそのまま口に放り込めるので手軽に利用できる。キャベツと少量の人参を刻んで市販のドレッシングをかけただけのおざなりなサラダでもミニトマト1個で印象がガラリと変わる。特にお弁当には、欠かせない素材だろう。日本ではトマトはもともと生食用の野菜として利用されてきたのだからどう頑張っても手のかかる大玉がミニに勝てるはずもない。 この様な理由からミニトマトは大玉も含めたトマト全体の消費を下支えするようになったのだろう。となると種苗会社はミニトマトの新種開発に力を注ぐようになる。糖度が高い、皮が薄い、まるでフルーツ、加えて栽培容易、病害虫に強い、こういううたい文句の下、毎年、春になると新種のミニトマトがたくさん売り出される。最近ではリコピンだギャバだと機能性を強調する新種がはやっているようだ。美味しくて体にいい。 大手の種苗会社間では魅力的なミニトマトの開発にしのぎを削っているのだろう。キャロルとかアイコのような人気の高いブランドを育てることに成功すれば莫大な収益をもたらすに違いない。 しかし消費者は店先に並んだミニトマトについて品種まで気にするとは思えない。本格的なトマト農家でも評価の定まらない新種のトマトに簡単に飛びつくとも思えない。結局、新しい品種を待ち望んでいるのは消費者でも生産者でもなく、私のような物好きな菜園愛好家と家庭菜園向けに苗を生産する育苗業者、主として通信販売や直売所などでトマトを販売している小規模生産農家ではないだろうか。消費者は安全で美味しくて、適正な価格のトマトを望んでいるわけで、新作のプチプヨだろうとキャロル10だろうとそこまでこだわってはいないように思う。 種苗会社の策略? によって消費者の好みはもっと甘くもっとやわらかくという方向に引っ張られていく。トマト本来の青臭い匂いや酸味はマイナス要素として取り除かれ、フルーツのように甘いトマトというようなわけのわからないキャッチフレーズが登場するのである。 ここ数年来、こういう風潮に背を向けてひたすら在来種を中心に栽培してきた。播種→育苗→定植→収穫→採種という循環がうまくいっているのだからそれでいいではないか? しかし昨年、近所のホームセンターで見かけたF1ミニトマトの苗に手を出してしまった。明日にも花が咲きそうな立派な苗を1株、購入してしまったのである。4月も半ばというのに温室で育苗中の在来種トマトなんてまだ背丈10cmほど。発芽さえおぼつかないヤツもいる。こんな状態だったので立派なF1苗の誘惑に抗しきれなかった。 購入した苗は早速、温室の片隅に定植した。通常の1本立ちは止めて脇芽を2本残して3本立ち。摘んだ脇芽はポットに挿して10株以上の苗に育てた。1株300円位だったからまことに効率よし。(もしかして違反?) 3本立ちにした温室のオレンジパルチェの実は7月の初めにはきれいなオレンジ色に色づいた。これがびっくりするほど美味しい。おなじみの在来種ワーンミニやひとくち、ステラミニに比べて甘さもうま味もさることながらとにかく味が濃い。朝の温室でもいだオレンジ色の実をその場でバジルと一緒に口に放り込む。朝の極上サラダ。菜園仕事中の水分補給にも午後のおやつにもオレンジ色の実は大活躍してくれた。 消費者の好みを考慮して手間暇かけて作り出されたF1トマトと伝統的な在来種のトマトの味の差は想像した以上に大きかった。在来種にこだわるのは種まきから種採りまでの作業を自分の手でコントロールできるというところにある。 一方のF1は種を採種して翌年播いても同じものができるとは限らない。基本的には一代限りなのである。オレンジパルチェがいくら美味しくても病気に強くてもその優れた形質をそのまま次世代に手渡せるとは限らない。似ても似つかないまずいトマトができる可能性だってある。何度かF1トマトから採種して翌年も栽培してみたが、代を重ねるごとに本来の美味しさから離れていくような気がした。 調理用トマトの場合は優秀な在来種サンマルツィアーノというエースがいるから例年通り在来種一本槍で問題はない。 しかしミニトマトについては例年通り手元にある在来種を栽培するか、それとも美味しいF1トマトを選ぶか、大いに悩ましい。 種苗カタログを開くとそこには魅力的なF1トマトの種子がズラリと並んでいる。皮の柔らかい「ぷちぷよ」安達先生ご推薦の「惚れ丸」「オレンジ千夏」とどめは「アマルフィーの誘惑」。いかにも美味しそうなネーミング。皮が柔らかい、糖度が高い、形が可愛らしい、サイズが均一とF1トマトは語りかけてくる。 負けた! 年の初めにF1トマトの種子を6種類も購入してしまった。去年の在来種と合わせると10種類を超すミニトマトの種が保存缶の中で出番を待っている。全種類を播種して4株ずつ栽培しても50株。大玉と合わせると100株を超えてしまうではないか。 立派に育ったトマトの苗を手に定植場所を捜して菜園をあちこち歩き回る姿が今から目に浮かぶ。 さて3本立ちで栽培した温室のオレンジパルチェは11月に入り、霜が降りて菜園の野菜がほとんど討ち死にする中、元気に茂っている。ゆっくりとオレンジに色づいた実は皮は厚くて固いものの、夏より甘味がぐんと増している。寒さに抗して厚着して糖分をため込んでいるのだろう。実に美味しい。冬の入り口で、時折やってくるマガモの姿などをながめながら残り少ない実をひとつひとつ慈しみながら口に入れた。 しかしさすがに衰えが目立ち始め、緑色の実がオレンジ色に熟すことなく萎れて来た頃、もう限界というところで、株を抜くことにした。 春から秋まで親しんだトマトを抜くのはさみしい気もするが、また一方で大きな楽しみでもある。これまで叶わなかった地面の下の様子を覗くことができるのである。スコップで根の回りを堀り、慎重にトマトを地面から抜く。根が姿を現した。これが美味しい実をたくさんくれたトマトを支えてきた根か。数本の太い根が四方に伸び、たくさんのひげ根が縦横に伸びていた。これまでの1本立ちトマトの何倍も力強い根っこ。想像を超える立派な根だったので廃棄するのが忍びなくてこのまま祀っておきたい気分。 例年なら3株は植えるスペースに1株しか植えなかったことによってこんなに根がのびのびと育ったのだろう。適正な広さに適正な本数という野菜栽培の基本中の基本を遅ればせながら実践したからだろう。育て過ぎた過剰な苗に脅されて、菜園にとにかく押し込むことに夢中になってきた昨今の姿勢を深く反省。72株を24株に減らせばいいのだ。 とはいえ、もう種子を見境なく購入してしまったから株数を減らすなんてのは至難の業、かといって菜園をすべてトマトに明け渡すこともできないし。学びと悩みは尽きないのである。 白菜 今年も2月に突入、この月さえ越せば確実に春を感じることができる。冷蔵庫には11月に収穫した白菜が年を越しても10株ほど眠っている。新聞紙にくるまれた白菜は殆ど傷みもなく美味しく食べられる。 隣で眠っていた越冬用キャベツは1月中に全部食べてしまった。しかしキャベツがなくても白菜があれば大丈夫、と今では確信をもっていえるけどその実力を思い知ったのは最近のことだ。数年前まではキャベツ一辺倒、白菜はついでに少々という程度の位置づけだった。 最近では殆ど主食と化した野菜のごった煮スープの主役はキャベツではなくて白菜なのである。大量の野菜をじっくり煮込んでスパイスや味噌を加えて味付けしたスープは実に美味しい。最後の一滴まで飲み干すほど美味しい。白菜はほかの野菜やきのこと一緒にその滋味を惜しげもなくスープに放出する。それだけでも十分なのだが、白菜はスープの旨味も貪欲に吸収するのである。キャベツは盛大に旨味を放出するが、吸収についてはそれほど熱心ではない。玉葱やキノコ、トマトもどちらかと言えば放出派。大根は放出と吸収のバランスがよい。白菜の真骨頂は吸収する力にあり、少々大げさだが私には大きな発見だった。こうして冬の間、白菜はキャベツの座を奪ったのである。 これまで白菜はキャベツと一緒に巻物野菜に分類していたのだが、同じアブラナ科でも白菜はカブに近い仲間であることがわかった。白菜は葉の根元から葉先にかけて色合いも質感も違っている。根元の真っ白い部分はスポンジ状、緑の葉はちりちりと縮れている。おおざっぱに漬け菜に分類される野沢菜や高菜、水菜やかつお菜と葉の様子はよく似ている。たぶん巻くという性質を獲得した白菜はほかの漬け菜類を出し抜いてメジャー野菜に昇格したのだろう。 スポンジ状の根元の方は吸収力が非常に高い。縮れた葉は平たい葉に比べると面積が広いから味がしみこみやすい。キャベツの葉がストレート麺なら白菜の葉は縮れ麺なのである。 だから白菜はスープのうまみを存分に吸収してくれるのだろう。 偏愛している白菜だが、生産量が増えているのは我が菜園くらいで残念なことに全国的にみると生産高量はひと昔前とくらべると大きく減少している。 原因はもちろん食生活の変化にある。白菜は漬け物に向いている。塩が浸透しやすい上にキャベツより結球がゆる目なので塩が中心部まですばやく浸透する。ほかの漬け菜、野沢菜や広島菜に比べて形も整いやすい。白菜の暖かみのある白い肌は食卓では魅力的に映る。昆布の黒、唐辛子の赤、柚子の黄色を添えればまことに美しい。 50年くらい前までは都会でも白菜を漬ける家庭が多かった。大正生まれの母もある時期までは毎年欠かさず八百屋さんが届けてくれる白菜を漬けていた。今年はよく漬かったとか、いつもより暖かかったから出来がよくないとかご近所さんとそんな会話を交わしていたものだ。台所の床の羽目板を外すとコンクリートの室のようなものがあってそこには自家製の漬物やら梅干しやらが保存されていた。 住宅事情や家族構成、とりわけ食生活の変化によって都会では白菜を漬ける家庭は今やほとんどないだろう。農村でも事情はそれほど変わらないと思う。 野菜栽培と保存の技術の向上により1年中、新鮮な野菜が供給されるようになってからはレタスやトマト、キャベツやキュウリを使った生野菜のサラダは手軽な一皿として家庭に普及していった。サラダは彩りが華やかで肉や魚介類を加えたり様々なバリエーションが楽しめる。しみじみとした地味な白菜漬けはシャキッとした華やかな生野菜のサラダにとうてい太刀打ちできない。加えて塩分の取り過ぎが問題になってきた昨今、保存のために塩をたっぷり使う漬け物は健康によくないということで悪者扱いされることもある。 危うし白菜。サラダに押されて漬け物という大口供給先が激減した白菜、このままでは白菜は片隅に追いやられてしまう。探さないと手に入らない稀少野菜になってしまう。 チャイブスの花で仲良く吸蜜・ミヤマカラスとスジグロシロチョウ こうした白菜の危機(野菜のゴボウ化ともいう)に歯止めをかけたのは、唐突だが、卓上型ガスコンロの普及にあると思う。そうイワタニのカセットコンロ。 かつて鍋物は家庭ではそれほど頻繁には行われなかったように思う。幼い日、わが家では食堂と居間にそれぞれガス管が引いてあった。それにおなじみのオレンジ色のゴムホースをつないで卓上にガスコンロをセットして鍋をのせていた。子供がホースに躓いたり、締め具が緩んでガス漏れしたりと仕掛けが面倒な鍋料理は特別な日の料理だったように記憶している。来客とか誕生日とかすき焼き用の上等な牛肉をいただいたいうような高度なモチベーションが鍋物には必要だったのである。 そこにカセットコンロが登場する。ボンベをセットしてコンロを食卓に設置する。鍋をのせて具材を放り込めば手軽に鍋料理が楽しめる。部屋にガス管を設置する必要もなく、厄介なゴムホースも不要。コンロの上にはあり合わせの大きな鍋、そこに肉やら魚やら豆腐やら野菜を放り込んでみんなで鍋を囲んで煮えるのを待つ。これなら家庭ならずとも学生下宿だってかんたんに鍋料理が楽しめる。冷蔵庫の掃除役にもうってつけ。鍋料理は特別な日の料理から手軽に楽しめる手のかからない料理という地位を獲得したのである。 カセットコンロの普及によってゴムホースから解放された鍋料理は瞬く間に家庭に入り込み広く深く愛されるようになった。加えてテレビの料理番組や旅番組などを通して地方の鍋料理が全国的に広く知られるよになった。水炊き、きりたんぽ鍋、石狩鍋などなど。今では、キムチ鍋、トマト鍋、豆乳鍋と鍋料理用の各種スープとポン酢などのつけ汁がスーパーの棚にズラリと並んでいる。その多様さは目を見張るばかり。 キムチ鍋にしろ豆乳鍋にしろ鍋の主役は何といっても我らが白菜なのである。ここでも放出と吸収、特に吸収という白菜の特技が遺憾なく発揮されることとなる。旨味を吸収する力が強いから白菜それ自体が美味しい。火が通りやすいというのも有利。いくら上等な肉や魚介でも単品では鍋の素材にはなりにくいが、白菜は昆布と豆腐くらいあればそれだけでも鍋料理は成立する。ほどほどという白菜の性質は鍋料理にはうってつけ、キャベツにも大根にも、ましてゴボウにもこんな芸当はできない。 かくして白菜は鍋料理を支え、鍋料理は白菜の需要を支えてきたのである。 大根はたくあん漬けの衰退とともに生産量が急降下した。コンビニおでんもたいした救世主にはならなかった。カセットコンロの出現による鍋物の普及によって大根が受けた恩恵といえば大根おろしくらいではないか。 ましてや牛蒡をや。 白菜に訪れたもうひとつの幸運、それはキムチの普及にあると思う。「桃屋キムチの素」の発売である。キムチの素により一般家庭ではほとんど馴染みのなかったキムチが漬け物として広く認知されるようになった。家庭で作る作らない、食べる食べないは別として「キムチ」という言葉が広く市民権を得たのである。スーパーの棚には昔ながらの白菜漬けやご当地漬け物に代わって多様なキムチが並らんでいる。 キムチは従来の白菜漬けに比べるとかなり攻撃的な漬物だ。漬物というよりおかずに近い。以前、韓国でキムジャンに混ぜてもらったことがあるが、女性たちの本気度はすごかった。陰干しした白菜の葉っぱ1枚1枚にヤンニョムを塗りつけていく。ヤンニョムは大量の唐辛子(3種類位、産地指定あり)、魚介の塩辛、なしやりんご、ニンニク(これまた複数、産地指定あり)などを混ぜ合わせたものだ。大きなボールが大量の唐辛子で真っ赤に染まりともかくパワフル。ゴム手袋がなかった時代にはどうしたんだろうと余計なことを考えてしまう。白菜もキムチ専用らしくて小型で葉の巻き方も緩かった。 こうして漬けられ、程よく発酵したキムチは副菜としてはもちろん鍋や炒め物など様々料理にも使われる。 インパクトの強いキムチは日本の漬物界に新風をもたらし、その恩恵に最も浴したのは大根でもキュウリでもなく白菜だったのだろう。 白菜にとってさらなる追い風となったのはテレビで人気を博した料理番組にあると思う。家庭向きお手軽中華料理の普及である。それまで漬物以外の白菜料理といえば白菜と油揚げの煮物とかお浸しとかお味噌汁の実くらいしか浮かばない。油揚げの油や削り節のうまみの力を借りて淡泊な白菜は食卓にのってきたのだろう。いずれにしても子供が好まないひと皿であることに間違いない。 料理番組に頻繁に登場するようになった油を使ったカラフルな炒め物、肉や魚介も入った短時間で仕上がる炒め物、これなら食卓の主役になれる。子供たちも喜んで食べる。八宝菜や片栗粉でとろみをつけたあんかけ料理。ここでも吸収能力の高さと火の通りのよさという白菜の優れた性質が存分に生かされる。油で炒めてさっと煮込む、さらにとろみをつけるという調理法は白菜の利用の幅を大きく広げたのである。不器用な大根や牛蒡にはこの芸当は無理。 最近は芯がオレンジ色のオレンジ白菜を栽培しているがこれが実に美味しい。火を通すとオレンジ色はより鮮やかになり見た目も美しい。白菜を極めた達人の中にはオレンジ芯や黄色芯は邪道、白い芯の白菜の方がずっと美味しいという声も多いけど、白菜に目覚めたばかりの私は邪道でもオレンジを選ぶ。ちなみにオレンジ色や黄色の芯の白菜は白菜を半割にして販売するようになって急速に普及したそうだ。なるほどその方がカット面が華やかに見える。白菜だって人知れず生き残るための努力をしてきたのである。今年ももちろんオレンジ白菜。白菜はキャベツやブロッコリーなどと同じアブラナ科の野菜だが、その仲間の中では一番栽培が楽だと思う。放っておいても葉っぱが程よく巻いた3キロを越す巨大な白菜に育つのである。 収穫時期を逸したロマネスコ・ミケランジェロ。今年こそ ミケランジェロとサクサク王子 ミケランジェロはカリフラワーロマネスコ、サクサク王子はつるなしインゲン。どちらも昨年、菜園にデビューしたニューフェイス。 ロマネスコの姿形は実に芸術的だ。さすがイタリア。小さな三角錐の蕾が渦巻状に寄り集まって大きな三角錐を形成している。(こういうのをフラクタル図形というそうだ。)全体の形状と寸分違わぬ姿形をした小房は精緻で実に美しい。しかも色は鮮やかな黄緑色、加熱してもその色は失せることなく、食卓を華やかに飾ってくれる。最近ではデパ地下やスーパーでも販売さている。近所の直売所でも時々みかけるようになった。 彼女の存在はかなり前から知ってはいたが、派手なカリフラワーだろう位に思い込んでいたので、栽培してみようとは思わなかった。親分のカリフラワーについてもその利用価値の高さに気づいたのは最近のことだ。 去年の冬、半分にカットされた本当に巨大なロマネスコを友人から押し付けられた。カリフラワーもブロッコリーもまだあるし、ちょっと困ったなと思ったけど、その姿形と色があまりに美しかったのでとりあえずありがたく頂戴した。 一体どこにナイフをいれていいやら、まわりに蕾の破片を散らかしながら小房に切り分ける。茹でる。すぐに火を止めて蒸らしてからお湯を切り、冷水に放つ。ほどよく冷えたロマネスコを水切り。1個つまんで口に入れる。オッ、なんだこの味は。カリフラワーと比較するとアミノ酸的なうま味が強い。茫洋としたカリフラワーはスパイスを振りかけてインド風の炒め物ザブジにしたり、カレー風味のピクルスとして食べてきたのだが、ロマネスコは茹でただけでも十分においしい。これなら肉や魚介の力を借りなくても料理の主役としても通用するかもしれない。蒸し焼きやシンプルなバターソースをかけてグリルしてもいい。 ごめんなさいロマネスコ、貴方は、充分探求に値する野菜でした。 早速「ロマネスコ・ミケランジェロ」(晩成)と「ロマネスコ・ダヴィンチ」(早生)の2種類の種子を購入して栽培することにした。ロマネスコ元年スタート! ロマネスコはブロッコリーやカリフラワー、キャベツと同じブラシカ類だから4月の初めに播種して彼女たちと一緒に苗を育てて、6月の初めに菜園に定植した。ひいきして日当たりのいい場所に定植してやったせいか初めてにしては順調に育って個性的なあの形の蕾ができた。ちょっと感動、次第に成長して色鮮やかな三角錐の大きな蕾になった。本当にできるんだと深く感動。菜園のオブジェとしてずっとながめていたかったけど、ある日、意を決して1個だけ収穫してみた。 収穫したばかりの美しい蕾にナイフを入れる。おやっ、ナイフがスッと入らない。茎が固い。蕾みに瑞々しさがない。菜園のオブジェとしてながめている間に収穫適期を逃してしまったのだろう。黄緑色が失せて黄味が強くなり、固くなった蕾みは老化しているとしか言いようがない。あーあ、2週間前に決断して収穫を始めればよかった。2,3個を除いてほかのヤツも同じようなものだった。 栽培のきっかけを作ってくれた友人にお裾分けしようと思っていたが、そんなわけにもいかないから、細かく刻んだり、味つけを工夫してともかく食べ切った。 もちろん、このくらいのことで栽培を止めたりはしない。今年も挑戦すべくロマネスコの種子を購入した。「ロマネスコ・ラファエロ」。時期をずらしてこまめに苗を作り、時期をずらして栽培してみよう。早めに収穫すれば多分、美味しいロマネスコを手に入れることができるだろう。今年がだめでも来年、それもダメなら再来年、そこまで菜園仕事を続けていける自信はないが・・・ トマトの支柱やゴーヤーのネット、花豆用のパーゴラ、ウリズンやエンドウ用のフェンスと背の高い構築物で菜園はだいぶにぎやかになってきた。菜園では同じような背丈の作物が多いのでそれら構築物はよいアクセントになるのだが、それにしてもちょっと過密気味。これまではツルありとツルなしがあれば迷わずツルありを選んできたのだが、もうこれ以上構築物を増やしたくなかったので昨年は支柱が不要なツルなしインゲンを栽培することにした。その名もサクサク王子。派手な名称に似合わず昔からある固定種のインゲンで茹でてもさくさくした食感が味わえるそうだ。 インゲンというのは肉料理の付け合わせや肉じゃがやポテトサラダの彩りなど内容よりもアクセントとして使われることが多い。絹さやだってグリーンピースだってブロッコリーだって構わない。ハーブや葉物じゃなくてある程度存在感のある緑色野菜。いんげんについてはその程度の位置づけだった。 苗を作って定植したままほとんど忘れていたのにサクサク君は律儀にまじめに繁茂して膝下くらいの丈に成長すると地味な花を咲かせて莢をたくさんつけた。本当にたくさんたくさん莢をつけた。収穫しても収穫しても翌日には食べ頃の莢がたくさんぶら下がっている。もちろんセッセと食べる。ごま和えはもちろん、ナムル風にしたりクミンやガラムマサラをまぶしてインド風味付けにしたり、鶏肉や魚と一緒に蒸し焼きにしたり、インゲンもそう捨てたもんじゃなくて工夫次第では添え物以上の働きをしてくれる。手が回らなくなると生のまま冷凍ストッカーに放り込んで冬用の緑色野菜として保存した。その働きぶりに好感を抱いたので夏に二度目の育苗をして秋の初めに温室に定植した。気温が低かったせいか夏ほどの勢いはなかったけどそれでも花を咲かせて莢をつけた。菜園では夏野菜も南国葉物も豆類もほとんど枯れてしまったが、温室のサクサクは毎日律儀に莢をつけた。朝、温室に行くと茎の後に隠れるようにして地面を見つめるサクサクを探し出してサヤを摘むのが日課になった。季節は進み、雪がちらつくようになってもサクサクは莢をつけ、その数は次第に減ったけれども少量でもサクサクのきれいな緑は食卓を賑やかにしてくれた。 来年も粘り強くまじめなサクサク君を栽培しよう。ツルなしというのも意外といいものだ。こじんまりと慎ましやで一所懸命な感じが伝わってくる。 今年はインゲンだけでなくサヤエンドウやスナックエンドウ、グリーンピースもツルなしを選んで栽培してみよう。ちなみにサクサク君の天ぷらは超美味だった。まじめで地味なこのインゲンがなぜサクサク王子などいうキラキラネームを授かったのだろうか。きっと本人も当惑していることだろう。 新築のガゼボ。スイカズラが覆うハズなのだが・・・。気配なし 死ぬまでに栽培したい花 いつの頃からか菜園にあったガゼボ(複数本の柱をたててその上に屋根を乗せた東屋)が一昨年の冬に雪の重さで潰れてしまった。ガゼボは中に置かれたベンチに腰を下ろして、紅茶を飲みながら刻々と変化する菜園の様子を眺めてゆったりと時間を過ごすための憩いの場である。建前は。しかし一度としてガゼボでそんな優雅な時間を過ごした記憶はない。炎天下、汗だくになってどっこいしょとベンチに座る。目に飛び込んでくるのは美しく整備された菜園や花園ではなく、刈り残した雑草や伸び放題のトマトのわき芽、舗道を占拠しているナスタチュームなどなど。とてもじっとしてはいられない。それはそうだ。使用人が手入れした庭なり菜園なりを雇用主が楽しむためのガゼボなのに、わが菜園では使用人と雇用主が同一であるからしてガゼボは水分補給や汗を拭いて体を休めるための休憩所になってしまうのだろう。 そんなガゼボだが、長い間、菜園の風景の一部になっていたので、いざ失ってみると喪失感が募った。 そこで新ガゼボ建設をお願いすると冬仕事に新しいガゼボを作ってもらえることなった。できあがったガゼボは以前の三角屋根に比べると少々風情には欠けるが、これなら一生もの、屋根が取り外せるからどんな大雪にも耐えるだろう。以前のガゼボが北海道に昔からある三角屋根のかわいらしい家だとしたら新ガゼボは屋根が平らな耐雪ハウスといったところ。別に不満に思っているわけではないが。 白花のカンナ、今年再度挑戦予定。群れたら見応えあり。 せっかくガゼボが新しくなったのだからこのエリアを久々にハーブガーデンにしてみようと思い立った。ここはいつもなら余った苗や一年草の花々をさしたる方針もなく無秩序に植えているので、夏になると収拾がつかなくなる。背丈が高いキンギョソウやジニアは花の重さで倒伏するし、下敷きになったアスターは悲鳴を上げるし、あっちの方では満願寺唐辛子とバジルが光をめぐって激戦の真っ最中。まったくのカオス状態。菜園の入り口なのでここだけは整然とした雰囲気が漂うようなエリアにしたいと思っていたのだが。 偶然、良心的なハーブ専門の苗屋さんがみつかったので一度は栽培してみたいと思っていたハーブの苗をいろいろ注文した。フレンチタラゴン、レモンバーベナ、ローズゼラニューム、レモンゼラニューム、パープルセージ、レモンタイムなどなど。雪深い北国では冬越しが難しいのであきらめていたハーブばかり。そして新しいガゼボにはハニーサックルを這わせることにした。ハニーサックルという魅力的な名前に惹かれてきめたのだが、その正体はハスカップなどと同じスイカズラの仲間。4メートル以上伸びるそうだからガゼボ全体を覆ってくれるだろう。 このハーブガーデンの試みは結論からいうと半分成功、半分失敗。ほとんどのハーブは冬前にポットに堀りあげて、温室に取り込んだ。繊細なフレンチタラゴンは柔らかな芽をたくさんつけて一番元気がいい。あと2~3年したらバタフライガーデンも兼務したハーブガーデンとして形が整うだろう。 死ぬまでに栽培したい花、今年は白い花の咲くカンナ。苗は順調に生育、ハーブガーデンの奥の方に定植したのだが、予想外にせり出してきたブッドレアの陰になってかわいそうなことをした。背丈は伸びなかったが、それでも淡いクリーム色の花が2~3輪咲いた。紛れもなくカンナの花、赤に比べるとずっと上品で名を名乗らなければカンナと気づかれないかもしれない。 今年も再挑戦、もっと日の当たる場所に植えて伸び伸びと育ててやろう。黒に近い濃色の花が咲くはずのホリホックも定植してみた。運がよければ今年、開花するだろう。 手元にはオークションで手に入れた名前を聞いたことももちろん姿を見たこともない花の種がたくさんある。春先の混乱ぶりが目に浮かぶ。 菜園、今年の方針 これまで何といい加減な態度で作物を栽培してきたのだろう。冬の間、植物分類の本を読んで大いに反省。キャベツと白菜が同じアブラナ科の野菜ということは知っていたが、これまで両者をアブラナ科の巻物野菜として勝手に分類してきた。ギリシャあたりを原産地とするアブラナ科の植物は西に進んでケール、東に進んで菜っ葉として進化する。ケールを親とする一族にはキャベツ、ブロッコリー、芽キャベツ、葉ボタンが所属する。一方、東に進んだ菜っ葉類は蕪や大小様々な漬け菜類(野沢菜、広島菜など、葉がぼうぼうに広がる菜っ葉)に進化、菜っ葉が巻くようになったのが白菜で小松菜や青梗菜に近い。 なるほどよく見ると白菜は青梗菜に似ている。 だからどうしたという話なのだが、これほど慣れ親しんできた野菜について何も知らなかったのかとショックを受けた。 これまではキク科のレタスもチコリもサラダ野菜として一括して取り扱ってきたけど両者はかなり異なった野菜なのである。人類は先住の動物たちが食べ残した苦い葉っぱを食べて命をつないで来たと言われる。苦みの強いチコリは今後、人類が生き残るためには大切な食物になるかもしれない。 今年はキク科のレタスとチコリをできる限り網羅して栽培するつもりでいる。10種類を超える葉っぱの行く先は考えないことにしよう。レタスではバターヘッドやコスレタスチコリではバタビアン、スカロール、ラディッキオ、・・・・・。 あと何年かまじめに精進すれば草食動物として生きていけそうな予感がする。 6月のボーダーガーデン。デルフィニューム、オリエンタルポピー、芍薬・・宿根草の花の命は短い
(3) カツラの香り 防風林のためのトウヒ苗木を別にすると、初めてお金を払って買ったのがこのカツラの木だ。漢字で「桂」と表す日本屈指の名木だ。 札幌の植木屋さんNさんを訪ねたのは、庭作りのごく初期の頃だった。一般的に言うと「植木屋さん」はお屋敷に庭木を植えたり剪定したりをする人、ということになるが、Nさんはそういう職人さんではなくて、庭木の販売を専門とする、いわば「植木販売業」とでもいう人物だった。札幌郊外に広い「土場」をもっていて、そこには様々な庭木が植えてある。値札はついていないが、どれも販売用の木で、土の下ではいつでも移動可能なように「根巻き」がされている。Nさんに案内してもらって、土場の木々を見て歩くのは楽しい体験だった。それぞれがどんな樹種で、どんな特徴があるのか、直接解説を聞くと、図鑑で見るのとは違うリアルで新しい木の情報だった。 二回目の庭木見学の中で、思い切って購入を申し出たのが一本のカツラの木だった。6メートルほどの樹高で、枝がのびのびと上に広がっていて、気持ちのいい姿をしていた。おそるおそる値段を聞くと6万円とのこと、それぐらいならなんとかなりそうだ。植木屋さんで庭木を買うなんて、なんだか分不相応な気がしたが、土場の庭木の中では比較的小さかったし、多分値段もぼくの懐に合わせてくれたのだろう。 というわけで、このカツラがわが庭最初の記念樹になった。山の林道脇に生える小さなシラカバを引き抜いてきて植える、ぐらいの経験はあるが、しっかり根巻きがされた庭木を植えるのは初めてのことだ。根巻きとは根の部分を一定の大きさに切りそろえて、そこを麻布で包み、同じく麻の縄できつく巻いた状態をいう。木の樹高に応じて根巻きの大きさも決まるが、あらかじめこうしておけば、運んですぐに植えつけることができる。根に巻いた麻布も麻の縄もそのままで植えてよく、やがて土中で分解して根が伸びるのをじゃましないという。 札幌からトラックでやってきたカツラを、できあがったばかりの庭用地に定植したのだが、その風景はいささか寂しいものだった。用地は南に向かって土を移動しているので、一帯はかなり心土が多く、つまり赤茶けた様相をしている。その南の角に目印的な木がほしいと思って植え場所を選んだが、粘土をただ広げたような殺風景な地面に植えられたカツラは、まるで略奪された令嬢のごとく、その可憐な枝や葉を振るわせるのであった。ましてやさえぎるもののない吹きさらしの丘の上である。教えられたとおりに支柱を立てて保護したものの、寒風にさらされてなんだかとても気の毒な姿であった。さぞかし札幌の穏やかな日々が恋しかったろう。 実際、この第一号カツラはすぐに下の方の枝が枯れ始め、翌年になると更に枝枯れが進んで将来が危ぶまれた。それでも木全体としてはなんとか耐えて生き残り、5年もすると新しい枝を伸ばすようにもなった。下は赤土、上は寒風、という過酷な環境によく生き延びてくれたものだ。 それから40年、このカツラは今でも同じ場所に生きていて、決して見事という樹姿ではないが、まずまずの大きさになった。樹齢のわりには幹などやや老木風だが、それもやむをえないだろう。今では後から来たカエデやシナ、コブシなどと並んで穏やかに同居している。きっと昔の苦労をみんなに話しているのだろう。 カツラの木は、庭木としての人気ではかなり上位に位置しているのではないかと思う。大きくなるので庭を選ぶだろうが、その上品な樹姿からしてファンは多いはずだ。ずっと以前だが、ある著名な評論家の家を訪ねたら、そこの娘さんが、「私の名前が桂子なので、母が庭の中央にカツラを植えたんですよ」と言っていた。立派な姿のカツラの木を眺めながら、さすがの名家に名木であること、と感銘したものである。(注) カツラの魅力は、まずその葉にあると思う。ハート型の薄緑色の葉が、枝にきれいに整列していて、そのたたずまいが美しい。春先の新芽や花はやわらかな紅色をしていて、長い冬の終わりを祝うかのように華やいで見える。やがて新緑の淡い緑になるが、天気のいい日に見上げると、ハート型の葉の重なりが見事な緑の濃淡で、きままな散歩を祝福してくれるかのようだ。 車道沿いのカツラ生け垣。それなりに手入れが必要。 秋になると葉は黄色に染まるが、この時期には葉から独特の香りが生まれる。木の周辺にほのかに甘い香りがただようのである。このキャラメルのような香りは「マルトール」というらしく、お菓子を作る時に使われる香料と同じだそうだ。「香りが出るから=香出ずる」でカツラという名前になったという説もある。 カツラは樹種としてはかなり古いものらしく、資料によれば「白亜紀から生き延びた樹木」とのことだ。北半球に広く分布した原始的な樹種だが、現在では中国と日本にのみ分布している。北海道では最も樹高が高くなる樹種だという。ただ、どうしてなのか分からないが、ぼくの住む村には天然のカツラが見当たらない。林業の業者に聞いても、「村にはないね」とはっきり言う。もしかしたらかっては分布していたものが、伐採後の天然林では再生できなかったのかも知れない。再生が難しい樹種だとどこかで読んだ記憶もある。 ぼくがカツラに会ったのは、実は彫刻材としてのカツラ材が最初だ。ずっと昔、田舎暮らし一年目に、飛騨高山で彫刻教室に通ったのだが、その先生が教材としてカツラ材を用意してくれた。よく研いだ彫刻ノミを使うと、カツラ材はすいすいと刻むことができて、とても気持がよかった。彫刻用材には一般にホウとカツラが使われるが、材の品格としては圧倒的にカツラが上だと思う。くすんだ木色のホウに比べてカツラの肌は赤みを帯びて美しく、特に優れたものはわざわざ緋ガツラと呼ばれるぐらいだ。 飛騨時代の最後の頃には広幅のカツラ材を入手して、喫茶店のイスを作った。背板全面に彫刻をした、いわゆる「ペザント・チェア」だった。カツラの香りは紅葉の葉だけでなく用材にもあり、作業は楽しいものになった。「鎌倉彫」の材料はカツラだし、アイヌの人たちはこれで丸木舟を作ったという。見た目だけでなく、実用としても優れた木なのだと思う。 そしていま、わが家にはかなりの数のカツラが植えられている。数にすると200本を越える。なぜそんなに沢山カツラがあるかと言うと、庭の生垣にこれを使っているのだ。公道からカエデの並木を通って、車道が庭のエリアに入るあたりから、左右にずっと生垣を作って建物や庭のゾーンを独立させている。最初は広々とした芝生の奥に建物があるように風景を作ったつもりだったが、庭木が道沿いに少ない分、どうもアプローチが殺風景に思える。道の近くに木が少ないのは、冬期間に機械で雪を飛ばすためで、これはやむをえない。 そこで生垣を考えたのだが、防風林の時と同じく生垣についても知識も手がかりもあまりなく、イチイ以外の生垣見本も近くに見当たらなかった。イチイは樹木としても用材としてもとてもいい木だが、その生垣では成功例をあまり見かけない。印象が暗かったり、すき間が多い生垣だったりするのだ。なにか広葉樹で適当な木がないものかと、思案をしていたら、誰かからカツラの生垣の話を聞いた。よく記憶していないが、どこかの公園で作ったカツラの生垣が見事だった、というような情報だった。そこで、苗木を扱う業者に問い合わせてみると、カツラの苗が入手可能なことが分かった。じゃあやってみよう、といささか短絡的にカツラ生垣に挑戦することにした。 カツラの広幅厚板を使ってカフェの看板を作った。 生垣初年度はずいぶん前のことだ。苗木をおよそ100本、40センチほどの間隔で道沿いにずらりと並べて植えた。教科書には支えの竹組が必要とあったので、その通りにやったが、後になってこれは不要だと分かった。カツラの苗は防風林のトウヒより更に小さくて、本当に鉛筆のようなものだったが、すごいことに植えた全部が活着して年を越すことができた。特別な配慮したわけではないから、きっと土壌や気候がカツラに合ったのだろう。生育も早くて数年でもうかなり密になり、上部を刈り取る必要がでてきた。生垣用の両手バサミを用意して上端をそろえて切ると、どうしてなかなかの生垣ではないか。植える前はカツラのような大木に育つ木を、せいぜい胸高の生垣にすることにためらいのようなものがあったが、カツラは見事に対応してくれた。その後両手バサミはエンジン式のヘッジ・トリマーになり、いまでは全部足すと100メートルを越える距離の見事なカツラの生垣になっている。
春が嬉しいカツラの生垣、わが庭の自慢のひとつである。 (注)白州次郎、正子家のこと |
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4月 2024
ご案内「藤門弘の北海道フォト日記」は夢枕獏さんのホームページ『蓬莱宮』にも転載されていますので、そちらもごらんください。 |