(4)生垣の話 続き
前項でイチイの生垣について悪口を言ってしまったが、それはぼくの住むあたりを見回した印象であって、内地で見るようなよく手入れされたイチイ生垣は、端正な緑の立体としてそれなりに見事なものだ。彼我にどういう違いがあるかというと、端的に積雪の問題だろう。つまり、積雪のある地域での生垣は、そもそもからハンディを負っているのだ。だって、たとえばわが家では黙っていても2メートル以上も雪が積るのだから、当然生垣の上にもその雪が乗る。この重量に自力で耐える生垣というのはありえないから、どのようにガードして冬を越すか、それが勝負になる。この時、冬にも葉をつけている針葉樹というのは耐雪上圧倒的に不利だ。 わが家のカツラの生垣は、葉を落とした晩秋に、専用に作った木製の大型「すのこ」のようなもので両側からはさみこんでいる。アルファベットのA字型に養生をして雪に備えるわけだ。カツラは葉を落としているし、枝も柔らかいのでこういうことができるのだが、イチイとなると中々こういう冬囲いはむずかしく、色々方法はあるのだろうが、どうしても雪のダメージを受けてしまう。おまけにイチイは成長が遅いから、痛んだ部分の回復に時間がかかる。北海道のイチイ生垣がハンサムでないのは、こういう事情によるのだろう。 雪の影響を受けない、あるいは影響が軽微な内地では、生垣は広葉樹、針葉樹ともに広く樹種を選ぶことが可能だ。そもそも温暖な気候だから自生する樹種も多く、イチイの他にもマキやキンモクセイ、ツゲ、ヒバ、イボタなどたくさんあるし、アラカシやカイズカイブキなどは背丈の高い生垣に使われるようだ。京都や奈良を歩くと、それはそれは見事な生垣に出会って、やっぱり内地にはかなわないなあ、とちょっと敗北感を持ったりするのである。別に京都や奈良と戦っても仕方ないのだが、やはりくやしい。 京都からもっと遠くへ行って生垣を眺めるなら、やっぱりイギリスだろうか。イギリスの生垣、というとすぐに「ヘッジ」とか「ヘッジロー」というような単語がネットに出てくる。ただ、ヘッジローというのはぼくたちが生垣として連想する種のものではなくて、田園地帯で見かける放牧地の区画のようなものを指すはずだ。 イギリスやアイルランドの田舎を旅すると、緑の牧草地とこのヘッジローのラインが風景の中心になっていて、もちろん道路との境界も同じヘッジで区画されている。車から降りてよく見ると、たしかに植物による垣根ではあるけれど、まず樹種がかなり混ざっているし、かなり乱暴に木をねじ曲げてある。刈り込んで形を作るというよりも、灌木の枝を編むようして作られているのが分かる。樹種についてはよく分からないが、ぼくの見た範囲ではヤナギが確認できた。そして、この混み合う雑木の枝先を、槍のように思い切り鋭く剪定してあって、それは垣根を越えての侵入を防御するかのようだ。羊や牛などの動物たちに対して、この鋭い枝先は十分効果があるだろうし、囲い込む役割を果たすのだろう。ヘッジの幅も相当に広く、2メートル近くありそうだ。 イギリスの旅で買った本のひとつにこのヘッジローについてのイラスト本があったのだが、残念ながら手元に見当たらない。その本にはヘッジの歴史や作りかた、そこにできる生態系などについて細かく記されていた。生垣に咲く花、実る果実、巣を作る野鳥、などが紹介されていた。そのヘッジも近頃ではどんどん減って金属フェンスに代わっているらしく、伝統を惜しむノスタルジーに満ちたいい本だった。 というわけでヘッジローとは牧場の囲いのことなのだと思うが、では庭の生垣をどう呼ぶかというとこれもまたヘッジというらしい。イギリスのある園芸書には「単数の植物で作るのはヘッジ、複数の植物を組み合わせるのがヘッジロー」とあるが、しかし他の本では小さな低い生垣もヘッジローと呼んでいるから、言葉では両者の区別はできないみたいだ。それはともかく、生垣は西欧の庭でも実に多様に使われていて、樹種は日本よりずっと多いように思える。イギリスの種苗カタログを眺めると、花や野菜の種に混じってヘッジ用樹木苗のページがある。それによれば、イチイやツゲ、ニシキギやヒイラギ、ツバキ、月桂樹などが並び、ベリー類やバラなども生垣用に紹介されている。実がなったり、花が咲いたり、葉色がにぎやかだったりとかなり多彩だ。生垣を楽しもうとする姿勢がとてもいい。いわゆるフォーマルガーデンなどにある幾何学模様を作る低い生垣はイチイやサンザシ、ツゲなどが使われるらしい。刈り込みに強く、葉が小さいことが条件になるのだろうか。イチイは「ユー」、サンザシは「ハー」と呼ぶらしくておもしろい。 遙か遠くイギリスへと空間を飛んだので、ついでに今度は遙か昔へ時間を飛んで、70年前の横浜の生垣へ行ってみたい。 ぼくはどこかよく分からない外国で生まれたことになっているのだが、たしかな記憶が始まるのは幼児期の横浜の家だ。横浜市の郊外、白楽という場所に家があって、和洋折衷の平屋建ての住宅だった。記憶では家も庭もかなり広かったように思うが、子供の頃の記憶のスケール感というのは実際と結構違っているので、あまり確証はない。最近、その頃通った横浜山手にある聖公会の教会を訪ねたのだが、記憶とはまるで違って、びっくりするぐらい小さくて情けない建物だった。だから横浜の家も庭もたいしたものではなかったのかも知れないのだが、ともかく幼児期のぼくには大きな世界でありフィールドだった。 敷地の前面には割合広い道路があり、裏側には川が流れていたが、そのほぼ一周が生垣で囲まれていた。生垣は「マサキ」の木で作られていたのだが、これは当時最もポピュラーなものだったと思う。近所のどの家もマサキの生垣に囲まれていたように記憶している。ぼくが最初に覚えた樹木の名前もこのマサキだったに違いない。マサキはいまでも使われるのだろうが、これといって特徴のない平凡な低木だ。おそらくその強健さを買われて多用されたのだろう。 少し成長して関東学院の小学校に通うようになったが、学校ではお坊ちゃま、帰ると下町少年とのつきあいの毎日だった。勇敢で下品なS君が当時のぼくの先生だったが、彼が当時熱中していたのが「ホンチ」というクモの戦いだ。横浜に限った伝統らしいが、野生のクモどうしを戦わせるゲームがあって、少年たちはそれぞれクモを捕まえては飼育し、戦いに挑むのだった。ホンチはハエトリグモの一種で、オスは好戦的で相手とがっぷり組んで戦うのだ。マッチ箱に入れて持ち歩き、戦い用の大きめの紙箱は駄菓子屋で売っていた。「ホンチ箱」と呼んでいたと思う。 このホンチがいるのが生垣のマサキだ。春になるとその年の自分のホンチを獲得すべく、少年たちは生垣を丹念に見て回った。ぼくは小さかったから親分の後をついてあるくぐらいだったが、偶然自分でホンチを捕まえると嬉しかった。せいぜい1センチほどのクモだが、それなりに個性があり風格のようなものもあった。S君から二級品をもらって自分なりにかわいがったりもした。ホンチは正式にはネコハエトリというクモで、巣をつくらずに獲物を捕獲する肉食の戦士だ。クモを嫌う人もいるが、ぼくはこの少年期の経験があるので、割合クモが好きだ。ハエトリグモ類は北海道にも普通にいて、たまに見かけるとちょっと声援を送りたくなる。 というわけで横浜の住まいと、そこにあったマサキの生垣と、そこにいたクモの話なのであるが、幼児期から少年期にかけての記憶として、これらは結構しっかり根をはっている。この横浜の家には広い庭にそれなりの数の庭木が植わっていたはずなのだが、その中で特に覚えているのが「アオギリ」の木だ。緑がかったすべすべの幹の木だったと思うが、これがぼくの木登り専用の木だった。なにがおもしろかったのか、よくこの木に登ってあたりを見回していた。台風が来る予報があると、家では雨戸を打ちつけたりしていたが、ぼくは揺れる木に登ることを最大の楽しみとして待つのであった。台風の日に登ったアオギリが風で大きく揺れ、それに身を任せた時の快感は、いまでも身体の芯の方に結晶しているように思える。 アオギリの他でよく覚えているのは、イチジクの木だ。それなりに大きく枝を張った木で、実がなると収穫しては家族で食べたのだが、ぼくはこの果実がすごく嫌いだった。この木は葉や枝を折ると白い粘液が出て不気味だったし、木があった場所が川のそばの陰気な所だったからも知れない。70年も経つのに、いまだにイチジクは苦手だ。 思い出ついでに記しておけば、玄関先にあった大きなヤツデの株、自分より背の高い白いバラの茂みなどもその色合いとともに記憶の中に浮かんでいる。いま、ぼくの庭には種名の分からないブッシュ状のバラがいくつかあるのだが、それがなぜか横浜のバラとよく似ている。一緒に庭を歩く母親に「横浜の家にもこんなバラがあったよねえ」と言うと、5分ぐらいたってから突然大声で「あー!あったあった!」と答えた。100歳の記憶にも眠るバラなのであった。 コメントの受け付けは終了しました。
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4月 2024
ご案内「藤門弘の北海道フォト日記」は夢枕獏さんのホームページ『蓬莱宮』にも転載されていますので、そちらもごらんください。 |