アリス・ファームのホームページをちょっと間借りして、新しい連載を始めさせてもらいます。 タイトルは上記のように「グランパ樹木記」で、内容もタイトルどおり「グランパが語る樹木の話」ということになります。ぼくがこの40年に植えてきた樹木について、孫たちに語り伝える、ひとまずそういう主旨あるいは建前なわけです。 いうまでもなく樹木というのはものすごく長いライフサイクルを持つわけで、ぼくがいま植える若木は、孫かその次の代ぐらいになってようやく成木の姿を見ることになります。ぼくは現在の住まいや庭がそのまま200年ぐらいは維持されると期待をしているわけですが、もし希望どおりになったとしたら、そこには巨木、老大木が大きく枝を張っているはずです。でもその頃にはもうそれらがいつ、どんな風に植えられたかを知る人はいないかもしれません。 フォスターの『ハワーズ・エンド』にはあるニレの木の話が出てきます。州で一番の立派な木で、幹にブタの歯がさし込んであり、その樹皮が歯痛に効くというような話です。今の自分の住まいがハワーズ・エンドのように時を重ねた時に、ブタの歯や歯痛はともかく、そこにある樹木にもそんな小さなストーリーがあったら楽しいだろうな、と思ったりします。 ストーリーとまでいかないまでも、その木を植えた時のいきさつなどをメモし、ついでにその樹種について知ることをまとめておこうと考えるわけです。最近は調べ物をしてもすぐに忘れてしまうので、忘備録のような役割かもしれません。 というわけで、相当に私的な樹木記ですし、どこまで「ネタ」が続くか、あるいはぼくの集中力が続くか分かりませんが、ともかくスタートしようと思います。 (1)プロローグ 宅地と庭が決まるまで ぼくが住んでいる赤井川村は、北海道の中央部、石狩湾沿いの小樽や余市に隣接する小さな村だ。人口千人の村は、いわゆる「カルデラ地形」の内輪山の中にあり、わが農場はその西端のゆるやかな丘の上にある。 今から40年ほど前に、人が住まなくなったひとつの農家を譲り受けたのだが、それから隣接農家が離農するたびに徐々に敷地が広がっていった。一帯の農家は「3町3反」という面積が基準らしく、それは多分、国が農民に農地を払い下げた時の規格なのではないかと思う。北海道のスケールからするとやや小さい農地だが、大概は裏にある山林も所有するから実際の面積はその何倍かになる。そういう農家を4件分引き受けたので、わが農場はおよそ30町歩(30h)ぐらいの面積になった。というとずいぶん広いようだが、十勝や道東の広大な農場に比べればささやかなものかもしれない。面積として言えばそういう比較になるのだが、農地の広さは実はその土地の生産性と対比するものなので、ただ数字を比べてもあまり意味がない。 というわけで広いと言えば広い、そこそこと言えばまあそういうような面積の農場をやっているわけである。農場の仕事についてはひとまずおくとして、話はわが家とわが庭である。 この農地を手に入れた時は、道路沿いに建つ古い三角屋根の住宅がとても気に入ったのだが、これを残して他の木造倉庫類は全部壊してしまった。廃墟じみた古い倉庫などを取り除いてみると、ここは中々雰囲気のある地形をしていて好感が持てた。その昔リンゴ園だったというゆるやかな南斜面は見晴らしがよくて、村を一望できるし、その向こうには内輪山越しに羊蹄山がどっしりとした姿を見せている。斜面にそって上に登ると、そこはゆったりとした丘のようになっていて、小さな池があり、ずっと昔に入植した人の住まいの痕跡もあった。あちこちにリンゴやナシ、サクランボなどの朽ちかけた古木が立っていて、わずかに果樹園の名残もとどめている。 離農跡地というのはどこでもかなり乱雑になっているもので、しかしそれは農家が悪戦苦闘した歴史といえる。なので、古ビニールや農薬の容器だのは、ゴミとはいえ必ずしも不快なだけではなくて、むしろ先人の苦労に頭を下げたくもなる。最初の数年は農地の片づけと整理に注力して、しかしこの作業期間はゆっくりと将来の計画を考える時間でもあった。 丘の上一帯は、直前まではカボチャ畑だった場所だが、高いだけあって一番見晴らしが良かった。雑木林の裏山までも少し距離があって北側からの圧迫感もないし、南には内輪山越しに羊蹄山がよく見える。素晴らしい場所に出会った、と思った。大げさに言うと、一種啓示のようにして、丘はぼくに未来の住まいやそこでの暮らしを約束してくれたのである。 住宅や庭の場所をできるだけ大きく描いてイメージし、あちこちに目印の杭など打ち、小さな起伏はブルドーザーでならしていった。いわゆる造成工事である。まずは中心部分をおよそ1ヘクタール3000坪ほどと決め、中央部を平坦にした。表土を移動したのでやや赤茶けて情けない光景ではあったが、ひとまず広い宅地ができ上がったのである。 しかし問題がいくつかあった。そのひとつは公道から遠い、ということだ。北海道の家はどこも道路に密接して建てられるが、それは冬の除雪があるからだ。道路と建物の間に「引き」がないことに内地の人は驚くが、それには理由があるのだ。ところがここは公道から敷地まで100メートルにもなる距離である。冬期間の除雪をどうするのか、という大問題だが、しかしこれは結局、道路を舗装したり重機類を導入する、というような荒技で対応することにした。後になって色々苦労をすることにもなるが、その度に機械が大型になっていった。 もうひとつの大問題は、見晴らしがいい分むやみと風が強いことだ。南側からカルデラ盆地を渡ってきた風が、もろに吹きつけてくる。穏やかな日もあるが、強風の日などは歩くのもままならないような吹きさらしの丘なのである。冬になるとまるでシベリアの荒野である。 風対策には機械導入のような速効策は見当たらない。盆地の底から吹き上げてくる風を防ぐには、そこに林を作って木々に風よけをしてもらう、という正攻法しかなさそうだ。造成した敷地をぐるっととり囲むように木を植えて、内部の平穏を作る作戦だろうか。 そう思ったが、これにもまたいくつか問題がある。ひとつは当然ながら木を植えても、それが育って風よけになるまでにはすごく時間がかかる、ということだ。大きな木を植えればいいのだろうが、まわり一周となるとかなりの数になるはずだし、費用もすごいことになるだろう。山に植林するように、苗木をたくさん植えて成長を待つしかないだろう。 もうひとつの問題は敷地を林で囲む、ということはこれも当然ながら、眺望をさえぎる、ということだ。せっかく景色のいい丘の上を選んだのに、林で囲ったら風景はなにも見えない。景観か防風か、という選択になってしまうのであった。 そんな問題に直面して、結局やはり防風林を作ることに決めた。当時まだ40歳前後で、時間はいっぱいある気がしたし、家や庭はゆっくりと少しずつ作るものだから、木もそのうち大きくなるだろう、そう楽観的に思うことにした。木も庭も家も、いずれも10年単位で考えればいいのだ。 敷地からの眺望については、木が育って家や庭から直接見えなくなっても、外に広がる農地側に出ればそれでいいように思える。庭に続く農地のどこかに展望デッキでも作って、天気のいい日にはそこからのんびり羊蹄山を眺めることにしよう。結局防風優先の路線を選んだのだが、今になってみるとこの方針でよかったように思う。 そんなわけで現在の住まいと庭の用地が定まったのであった。1980年代中頃の話である。 丘の上の造成工事から数年後の住宅用地。木はひとつもない。
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4月 2024
ご案内「藤門弘の北海道フォト日記」は夢枕獏さんのホームページ『蓬莱宮』にも転載されていますので、そちらもごらんください。 |